日常への訪問者

戻る
何の変哲もない日常。

私は一人暮らしの会社員。
朝起きて、ご飯を食べ、仕事をして、買い物をして、家に帰り、ご飯とお風呂を済ませ、寝る。
毎日同じようなことの繰り返し、そんな日常に嫌気が刺していないと言えば嘘になるだろう。
かといってどうにかしてやろうという程の苦痛でもなく、ただ日々を漫然と生きているだけだ。
今日も仕事を終え、お弁当を買っていつもの帰路をのんびりと歩いていた。

仕事の後輩が何やら上司に怒鳴られていたことや、今朝電車に乗っていた女子高生のスカートがリュックに挟まってめくれていたことなんかを思い出す。
とりとめもない思考の海に身を委ね、帰り慣れた道をなぞるように歩く。
そんな夜中の静かな住宅街で、突然声をかけられた。

「ねぇ」

とりとめもない思考の世界はその一言で一瞬にして引き裂かれ、私の心は現実へと引き戻された。
咄嗟に声をかけられたので返事もできず、声の方へと振り向くのがやっとだった。
そこには、日本人とも外国人とも受け取れる顔立ちをした20代と思しき男性が、
グレーのゆったりとした服を身に纏って佇んでいた。
どこか違和感を覚えたのは、彼の服装があまりにもグレー一色だったからかもしれない。
不審に思い眉をひそめてしまったことに気づいたのか、彼は少し困った表情をしながら私に聞いてきた。

「貴方の名前なに?」

思わず目を見開いた。
そしてすぐさま思考が激しくめぐり始める。
以前どこかで会った人だろうか、私の知り合いだろうか?
何故いきなり名前を聞くのか?私が何かしただろうか?
暫し考え、思い当たる節が何もないことに気が付く。
だとすれば、なぜ彼は私の名前を知ろうとするのか、
考えるより聞く方が早いだろうと考え至り、私は彼に尋ねていた。

「誰ですか?なぜ私の名前を?」

グレーの彼はまるで、難解な哲学の質問をされた時のような表情を浮かべた。
腕を組むわけでも、手を顎に当てるでもなく、彼は両手をぶら下げたまま、少しの間何かを考えていた。
もしかして私は、頭のおかしい人に声をかけられてしまったのでは?と思考が結論を探し始めていた。
僅かな不安や恐怖が芽生え始めた時、彼はハッとして口を開いた。

「僕?私?はキーパーだよ。あってるかな?コミュニケーションをとりたい貴方と」

あまりにも変な日本語が帰ってきたので、思考が一瞬固まった。
そして雪が溶けていくように頭がゆっくり回り始める。
それと同時に恐怖が沸々と湧き上がってきた。
不自然な日本語というだけだったら、外国人だからと理由をつけれたかもしれない。
しかし彼の言葉はとても不気味だった。
最初は何が不気味かがわからなかったが、すぐにその答えが見つかった。
彼の日本語は明らかに不自然なのだが、発音自体は完璧なのだ。

逆なら不自然なことはないと思う。
文章は綺麗だけど発音は駄目、それならまだわかる。
教科書なんかで単語や文法の勉強はしたが、声に出しての練習はしてないというような場合だ。
しかし発音が完璧にもかかわらず、文章が下手というのは考えづらい。
なぜなら、相当な量の日本語を聞かなければ、発音が完璧になる筈がない。
そして、相当な量の日本語を聞いたのならば、こんな文章になる筈がないのだ。

些細だが明らかな矛盾、
起こり得るはずのない不気味なことが、今起こっていた。
私は何か関わってはいけない人と会話をしているような寒気を覚え、
逃げ出したい気持ちで胸が満たされた。

「あの、すいません、わからないですけど、私忙しいので」

そそくさとその場を立ち去ろうとしたとき、彼は演技にも見える大袈裟な素振りで私の前へ回り込み、慌てて呼び止めた。
その不自然さが、グレー男の不気味さを一層際立たせる。

「待って私?俺?も、貴方も悪くない何も、話すだけ何もしない!」

相変わらずの意味不明な日本語。
ちゃんと考えれば何となく伝えたいことはわかりそうだったが、私はもはやグレーの彼が恐怖でしかなかったので、その意図に気づこうとは思わなかった。
ただこの場から逃げて、つまらなくも平穏な繰り返しの日常へと戻りたかった。

「本当に忙しいんでやめてください!」

私は少々怒気を孕んで言った。
それが恐怖を隠すために絞りだした虚勢だということは、私だけがわかっているだろう。

「違う、何もしない、わし?うち?は」

彼が何かを言おうとしていたのを無視し、私は彼の横を通り過ぎて速足で歩いた。
何となく彼の姿を見てはいけない気がしたので、恐怖から逃れるよう私はひたすら足を動かした。
無意識のうちに辺りに人がいないかを探していたが、夜中の住宅街に人の姿は無かった。
ただ、ところどころ明かりのついている家はあったので、全くの孤独ではないということに少しばかり安堵をした。

自分の足音だけが響く中、ようやく自宅の姿が見えてきた。
すこし古びたマンションなのだが、そこの202号室が私の部屋である。
マンションの入り口に差し掛かった時、思わず大きく息を吐きだした。
気づけば走った後のように息が切れており、体が緊張していたようだった。

「怖かった……」

ふと口に出していたそれは、紛れもなく本心の言葉だった。
声にすることで緊張がほぐれ、無事マンションまで帰ってきたことで段々と冷静さが戻ってきた。
落ち着いてマンションの中に入ろうとした時、ふと足が止まる。

もしつけられていたら、私の家がバレてしまうのでは……?

そんなことを考え、思わず息を止めて周りを確認する。
周りには誰の姿もなかった。
とはいえこの暗い夜中、どこかに隠れていたら見つけられる自信はない。
不安が拭い切れない状態だったが、そもそもここで立ち止まった時点でこのマンションが私の自宅だと公言しているようなものだと気づいた。
そう気づいてしまうと、少し絶望した気分になる。
どうしようもないので、なるべく周りに注意を払いつつ202号室のドアの鍵を開けて自宅へ転がり込んだ。

きっと大丈夫。
自分に言い聞かせ、鍵を閉めて電気をつけた瞬間、一気に体の力が抜けるのがわかった。
弁当の入ったビニール袋を握る手は、気づけばじっとりと汗ばんでいた。
私は気だるげに靴を脱ぎ捨て、手も洗わずにソファに座り込んだ。

静寂の中、体の疲れと心の疲れがドッと押し寄せてきて何もする気が起きなくなる。
あまりに静かなのが何となく不安な気持ちを誘うので、テレビをつけて眺めた。
お笑い番組から流れる爆笑効果音が鼓膜を叩く。
そんな爆笑するほどじゃないだろ、と内心でケチをつけたりしているうちに、
好きなお笑い芸人が出てきて少し気分が明るくなる。
しょうもないギャグをみて思わず鼻から笑い声が漏れだす。

それから多少の元気を取り戻し、思い出したかのように手を洗い、ご飯を食べ、風呂に入った。
明日やる事の確認や準備を済ませ、寝るまでの間パソコンでネットサーフィンをした。

何となく今日の出来事をSNSにでも書こうかと思ったが、
文字に起こしてみると、そんな大した出来事じゃなかったかのように思えてくる。
何度か書き直しているうちに面倒くさくなり、全部消してなかったことにした。

そろそろ寝なければならない時間になったので、
パソコンと明かりを消して、ベッドの上に転がり込む。
天井を眺めながら、またグレーの服を着た彼のことを思い出した。

「彼は何だったのだろう……」

頭が変な人だったのか、それとも何かのドッキリだったのだろうか?
ドッキリならば種明かしがある筈なので、やはり頭が変な人だったのかもしれない。

あるいは、人知の及ばない存在と接触をしてしまったという可能性はあるだろうか?
幽霊、妖怪、化け物、宇宙人、未来人、神様、仏様……

そんなことを考えていくうちに、しょーもなという気持ちになったので、
私は考えるのをやめて、目を閉じた。

その後は何もなく、平穏な繰り返しの日々に私は戻っていった。
戻る

作品は自己責任で閲覧してください。

無断転載は禁止です。